日本内科学会生涯教育講演会平成18年Aセッションが,大阪で行われて・・・内科専門医の資格確保ということもあり,大槻は出かけてきました。
中庄〜網干〜大阪という乗車券のみの行程ですが,窓側は眩しいけれど,播磨灘〜明石海峡〜大阪湾が旅情です。
会場は大阪国際会議場 いつもながらですが,JRや地下鉄からちょっと歩きますし,周囲の食べ物屋さんも少なめ? いつもリーガロイヤルでお食事って訳にも行きませんし・・・。

相変わらず会場からの眺めは良いですね。遠くは六甲山系の東のはずれ辺りでしょうか。
堂島大橋南詰です。
↑:それでなんと,あの広い会場の中で,大学入学からの同級で,彼は腎臓内科,私は血液内科と,でも,同じ病棟の2科であった橋本淳先生,また,私が大学院から戻って臨床をしていた時に一緒に病棟をしていた岡本直人先生,井上孝文先生の同級生コンビと丁度同じ辺りに座っていて,びっくり,時ならぬ同窓会めいた感じになりました。
街角(福島区玉川の辺り)のお地蔵さん・・最近見なくなってますが・・。
野田恵比寿神社です。結構,戎市とか夏祭り〜地車とか,賑うお社のようですし,僕がちょっと覗かせて頂いた間でも,お参りされてらっしゃる多分,ご近所の方も多かったです。境内の南の外れには,石の案内塚もあって,案内に従って,「ひだりへ,極楽寺へ」って方にも行きました。
野田恵比寿神社はそこそこ広いし,狛犬も勇壮でした。
 情報としては
『「野田のえべっさん」で親しまれている恵美須神社が、いつごろ創建されたのかは不明であるが、境内には表面に「ゑみすのみや」側面に「永久3年(1115年)3月」と刻まれた御影石がある。石そのものは後世に建てられたものであるが、創建の時期はそのころと推測される。古来から「恵美須の大神」は漁業の神として祀られており、当時このあたりは、難波八十島と呼ばれ、漁業中心の地域であった。毎年1月の十日戎には多くの参拝客で賑わうが、夏祭には地車・太鼓・鯛鉾の巡行が行われるなど地元の氏神として信仰をあつめている。』
とのことです。
神社の少し西よりに「極楽寺」さんがありましたが,門は閉じてました。

そして,ここは,野田城址だったそうです・・・って野田城・・・それは
節分にちなんだこんなものも



ということのようです。
『野田城は享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されている。元亀元年(1570年)織田信長は、石山本願寺に攻め入り、この後10年にもおよぶ「石山の合戦」が始まるわけである。天正4年(1576年)石山本願寺を包囲した織田軍に対し、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に立てこもり織田軍と戦うが、織田軍の大軍にはかなわずに信長の手に落ちてしまう。天正6年(1578年)この城は、毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になるが、その後は歴史から忘れ去られ、現在ではその痕跡を見つけることはできない。明治の初め、「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されている』